台湾週報2145号(2004.6.3)
熟練内閣が順調な滑り出し
金融開放、各種細部の経済政策明示
陳水扁総統・呂秀蓮副総統の就任式が終わり、社会の目は游錫堃内閣の行政手腕の如何に向けられている。游錫堃・行政院長はこの国民の期待に応えるべく、5月17日には証券・先物市場の開放政策を示し、同21日には新内閣は熟練内閣であることを強調し、陳水扁総統の「経済第一」の既定の方針を具体化するための6点の実行項目を経済団体トップに示し、さらに基隆河の河川工事を視察し完工時期の繰上げを発表した。
●経済の国際化を鋭意推進
新内閣の陣容がほぼ整った五月十七日、游錫堃・行政院長は今後の証券、先物市場発展への基本路線について以下のように表明した。
一、わが国資本市場の国際化を加速し、国際先進証券市場との連携を強化する。欧米先進市場と肩をならべるようになるのは、政府の既定方針である。財政部は証券および先物市場の開放を加速し、制度面の改革から着手し、一貫した具体的計画を進め、政府の市場開放への決意を具現する。
二、財政部は市場開放のため、以下の措置を実施する。
①外資との連携ならびに運営には時間差の問題があり、常時運営の要望が高く、国内金融機関が外資の取り扱いに、時間差にとらわれないサービスを提供できるように開放し、実務面において融資の準備に不足が生じた場合についても措置を講じる。積極的な法改正によって証券業界に柔軟な構造を提供する。
②外資の有価証券市場への進出を開放し、外資の資金調達に便宜を図り、コストの低減を進め、資金運用の効率を高める。
③外資の国内先物市場への参入を開放し、わが国先物市場の活性化を図り、海外華僑および外国人によるわが国への投資増加を促進するとともに、法人の証券および先物市場への参入比率向上を図る。
④外資の国内証券市場への投資手続きの簡素化を進め、海外での投資申請も受け付け、中央銀行外為局の認可は必要ないものとする。
三、財政部は前記の外資による国内の証券ならびに先物市場への投資奨励策を実施するとともに、昨年行政院の「資本市場工作小組」が決議した資本市場の規模拡大、企業の資金調達への協力などの事項に沿って制度面から改革を進める。国際経済の法制度に沿った制度を整え、国際競争力を増し、市場の活性化を図り、株主の権利行使の制度にも改善を加え、外資のわが国債権市場への参入をうながす。健全な先物市場の確立については、コンピューター取引の確立を含め、先物商品の拡大ならびに市場拡大のための措置を積極的に講じる。
【行政院新聞局 5月17日】
●経済第一に向け邁進
陳水扁総統・呂秀蓮副総統の就任式にともない、游錫堃内閣が一部メンバーを替え発足した。行政改革とともに「経済第一」が政府の大きな公約となっているが、これについては各経済団体から数々の建言がなされていた。これに応えるため游錫堃・行政院長は、総統就任式翌日の五月二十一日、各経済団体のトップとの茶話会を開き「総統選挙は終わり、社会のすべては通常の軌道に戻らねばならない。選挙時の激情をいつまでも持ち続けているべきではない」と、社会への感想を述べた。さらに「すでに新内閣は発足したが、これは決して新人の素人集団ではなく、熟練した経験豊かな行政集団である」と強調し、各経済団体から出された建議に応えるかたちで、今後の方針を明示した。
この日の茶話会には、中華民国工商協進会、中華民国全国工業総会、中華民国全国商業総会、台湾電機電子工業同業公会、中小企業協会の各理事長らが出席し、政府側からは葉国興・行政院秘書長、林全・財政部長・何美玥・経済部長彭淮南・中央銀行総裁、胡勝正・経済建設委員会主任委員、陳其邁・行政院スポークスマンらが出席した。
このなかで游錫堃・行政院長は「各経済団体の建言は必ず政府の施政方針のなかに取り入れ、陳総統の経済第一と大改革の決意を具現する」と述べ、以下の六点を示した。
一、各経済団体の国家経済発展に関する建言は、経済建設委員会が責任をもってまとめる。
二、世界各国との自由貿易協定(FTA)の締結を加速する。現在わが国とFTAを締結している国はパナマ一国だが、政府は引き続き努力する。経済界はとくに米国とのFTA締結を急げと提唱しているが、米国はわが国に対し知的財産権の保護、コメの輸入制限緩和、医薬品問題、電信市場の開放などに疑念を持っている。これらについては経済建設委員会が専門小組を設け、自由化による衝撃など各種評価を検討したのちに、米国との交渉を加速する。
三、台湾への投資センターを開設すべきだとの建議については、わが国金融市場の強化につながる問題であり、経済部と協議し前向きに具体的な検討をする。
四、海水利用とその用途の拡大を検討すべきだとの建議については、台湾は海洋国家であり、海洋資源の運用とその多様化は、わが国の経済発展にとって非常に有益であり、経済部が中心となって企画を練り、業者の指導を強化する。
五、レジャー産業への融資を中小企業信用保証基金の一環とするか、あるいは政策的なものにせよとの建議については、交通部が研究してから企画書を行政院観光発展推進委員会に送付し検討する。
六、バイオテクノロジーの発展計画はすでに重要政策の一つに組み込んでいるが、国内の人材をどのように育成するか、海外の人材をどのように招請するか、また企業間の情報交換をどのようにして円滑に行うかについて、政府は十分な企画を立て、投資環境改善も含め、経済部と検討のうえその発展を加速する。
【行政院新聞局 5月21日】
●基隆河治水問題を前倒し解決
游錫堃・行政院長は五月二十一日、来年六月に完工予定であった基隆河流域の治水工事を、行政院の効率化促進の努力により、今年中に完成すると発表した。同時に「台北県と基隆市の災害防止基準を、台北市の基準と同等のものとし、基隆河流域の十数年来の水害問題を根本的に解決する」と語った。
台北県から基隆市に向かって流れる基隆河流域の水害問題は、この十数年来、地域住民にとっては生命と財産にかかわる重大問題となっており、このため歴代内閣はこれの解決を重視していた。五月十九日に新たな陣容を整えた游錫堃内閣はこの問題を効率化行政の一環に組み込み、発足二日目に関係閣僚をともなって現地視察をした。このときに游院長は随行記者団に前述の表明をした。このなかで游院長は、①効率化の促進、②生態重視による景観保護、③自然の水流に合致した護岸、④地方行政府と中央関係省庁との緊密な連携、⑤全国八カ所の水利局の協力による新管理方式の採用等の五点を基隆河流域河川工事の特徴として取り上げた。
さらに游院長は「基隆河の工事は加速されるばかりでなく、過去百五十年の洪水発生を研究したものであり、これによって基隆河の問題は完全に解消する」と語った。
【行政院新聞局 5月21日】
週間ニュースフラッシュ
◆〇四年経済成長率が五・四一%に上方修正
世界的な景気回復傾向により、対外貿易と民間投資が盛んになるなか、行政院主計処はこのほど、二〇〇四年の経済成長率を〇・六七ポイント上方修正し、五・四一%とすることを発表した。これはこの四年で最高の成長率となる。
《台北『経済日報』5月15日》
◆公民投票による憲法制定は台独のタイムスケジュールではない
李鴻禧・民進党新憲法小組召集人は五月十四日、新憲法制定のプロセスについて、二〇〇六年五月二十日までに憲法草案をまとめ、同年十二月にこれに対する公民投票を実施する旨説明し、「これは社会の秩序と安定のためであり、いわゆる『台湾独立のタイムスケジュール』とはまったく無関係である」と強調した。
《台北『中国時報』5月15日》
◆新政党には新たな名称が必要
宋楚瑜・親民党主席はこのほど、「台湾国民の期待に応えるため、親民党は国民党とともに新政党を結成することを決定した。野党の連携を強化し、国民に希望と安定を与えることが目的だ」と述べ、「新政党については、新しい名称が必要である」と表明した。本件について一部の党員は、保留の態度を示している。
《台北『中国時報』5月19日》
◆石原都知事が陳総統就任式典に参加
総統就任式典参加のため訪台中の石原慎太郎・東京都知事は、五月十九日、蘇貞昌・台北県長(元総統府秘書長)を訪問し、「中国が就任式典に合わせ台湾を威嚇する声明を発表したことには、日本国民も憤りを感じている」と批難し、「自由と民主を求める台湾国民の主体意識の高まりは顕著であり、第三国による干渉、介入は許されない」と強調した。石原氏は同日夜、李登輝・前総統と会見し、台日関係および米国との協力などについて意見を交わした。
《台北『自由時報』5月19日》
◆陳総統就任演説で台湾海峡の現状維持を確信
日本の阿部正俊・副外務大臣は五月二十日、陳水扁総統の就任演説の内容についてコメントし、「日本政府は両岸の対話による解決を一貫して期待するものである。したがって、陳水扁総統が四年前に提唱した「四つのノーと一つのナッシング」の遵守をふたたび表明し、今後四年間も変わらないと述べたことを、日本は非常に重く見ている」と述べた。
《台北『聯合報』5月21日》
◆米政府が総統就任演説に歓迎表明
バウチャー・米国務省報道官は五月二十日、「米国は陳水扁総統の就任に歓迎の意を表し、とくに総統が就任演説のなかで『建設的発言』をしたことを歓迎する」と述べ、陳総統が憲法改正について「主権、領土などの問題を含まない」と表明したことに歓迎の意を表した。
《台北『経済日報』5月21日》
◆四月の失業率が四・三六%に
行政院主計処は五月二十一日、四月の失業率は前月比〇・〇九ポイント下がって四・三六%となり、失業者数は四十四万四千人で、過去三年間で最少となったことを発表した。一~四月の平均失業率は四・四九%で、前年同期比〇・五六ポイント下落している。
《台北『中国時報』5月22日》
合併に動き出した国民党と親民党
両党内の反対意見をどう調整するかがカギ
●国親合併への動き
先の総統選挙に敗れた野党第一党の国民党内では、党勢挽回のため野党第二党の親民党と合併しようとする動きが急速に高まっている。これについて連戦・国民党主席は五月十六日と十七日、王金平、馬英九、呉伯雄、林澄枝、江丙坤の五人の党副主席と話し合った。もう一人の副主席である蕭万長氏は出国中で参加しなかった。
この席で連戦主席は「国民党・親民党の合併案を五月十九日の中央常務委員会に提示するが、蕭万長氏にはすでに知らせており、また親民党の宋楚瑜主席ともすでに話し合い、双方は一定のコンセンサスを得ている」と述べ、「監視勢力としての野党の力を結集し、民進党政権に対する最も有力な制御能力を発揮したい」と国親合併の基本理念を述べた。
これに対し、王金平、馬英九の両氏は「①宋楚瑜氏が国民党に帰ってきた場合、どのような地位を用意するか。②国親合併によって国民党内の本土派が離党するおそれはないか。③中・南部の地方党員と支持者が宋楚瑜氏の国民党復帰により、党から離れるおそれはないか。④紛争の起こらないように、党内でどのような調整をすべきか」の四点の問題を提議した。
国親合併の場合、まず処理しなければならない問題は①の点で、連戦氏と宋楚瑜氏のどちらがトップリーダーとなるかだが、王金平氏は「宋楚瑜氏が国民党に帰ってくるのだから、当然トップは連戦・国民党主席だ」と語った。また馬英九氏も、三月の総統選挙後から党内で党主席交代論が出ている件に対して「年末の立法委員選挙まで主席は交代すべきではない」と、当面において連戦主席支持を鮮明にしている。
また親民党との合併後、結党以来の「中国国民党」の名称を変更する案も浮かび上がっている。現在のところ「中国」を外して簡略名称の「国民党」を正式名称とするか、あるいは「台湾国民党」にするかの案が浮上しているが、連戦主席は「中国国民党の名称を一字も変更する必要はない」と述べた。
●合併案を党中常会が採択
国民党中央常務委員会は五月十九日、連戦主席が提議した「国親合併案」を採択した。この討議のなかで連氏は「野党が協力から合併に向かうのは、理念と教条の問題にとどまらず、今後の政局において必要な方向である」と述べた。この連戦氏の合併案に対し、中央常務委員会は一致して「正しい方向」と評価したが、馬英九氏は「合併の時期、順序、党改革への影響、合併後の路線に関する問題点などについて、さらに踏み込んだ論議が必要だ」と慎重論を唱えた。また王金平氏は、国親合併は「必要」として、その理由について「①国家と国民に対する使命感。②支持者への明確な回答。③野党の団結力強化。④政権奪還。⑤抜本的改革による再生」の五点をあげた。
連戦氏ならびに中常会は、馬英九氏の意見を尊重し、今後「下から上への討議」を尽くし、七月に全国党員代表大会臨時大会を開催し、「国親合併案」を追認する形を了承した。
●残された今後の課題
国民党中央常務委員会は「国親合併案」を了承したものの、党内の立法委員から反対意見も出されている。このため連戦主席は五月二十一日、陳宏昌氏ら三十数名の反対派立法委員と個別に会見した。このなかで反対派立法委員らはそれぞれの意見を述べた。それらの反対意見は、「年末の立法委員選挙までに合併するのは反対である」とする時間的なものと「もし国民党と親民党が合併するなら、まず連戦氏と宋楚瑜氏が党主席を辞任し、世代交代を完全に推進してからにすべきだ」とする世代交代優先論の二つに大別される。世代交代優先論のなかには「もともと国民党は、連戦氏と宋楚瑜氏によって分裂したのだ」とする責任追及論も見られた。
これらの合併反対もしくは慎重論に対し、連戦主席は具体的な回答は避け「国民党と親民党が合併してこそ、野党勢力が強大な力を固めることができるのだ」と強調するにとどまった。また馬英九氏は同日「七月の臨時大会までに党主席が交代するのは不可能だ。いま世代交代を論じ合うのは時期尚早であり、当面の急は連戦主席のもとに年末立法委員選挙への体制を整えることだ」と、改めて連戦支持を鮮明にした。さらに馬氏は「反対意見の多くは、党中央に対する不満が中心になっており、かれらは中央が地方の意見を尊重することを希望している。私は機会があれば、これらの議員と個別に会見していきたい」と表明した。
●親民党内にも慎重論
陳水扁総統の就任式(5月20日)の前日に国民党中央常務委員会は、党の将来にかかわる重大な決定をしたが、それが親民党にも大きな波紋を呼んでいる。伝えられるところによれば、国民党内では連戦氏と宋楚瑜氏が合併のための「工作小組」の名義をもって協議を進め、宋楚瑜氏が逐次国民党の党務に参与し、来年三月に「自然融合」するという案が進められている。
だが親民党内では「名目は合併だが、実質は国民党による併呑ではないのか」という疑念が出ている。場合によっては、「連宋の暗黙の了解」は国民党の一方的な思い込みになる可能性も否定できない。国民党内においても、合併すれば主導権を宋楚瑜氏に握られるのではないかと疑念を持つ意見は多い。
今後一カ月の期間内に連戦・国民党主席と宋楚瑜・親民党主席が、それぞれ党内人事において合併に向けた布石を完成させるのは困難と見られており、国民党が七月に臨時大会を開催しても、合併案がすんなり通過するかどうかは未知数である。合併に反対する両党の立法委員は互いに牽制、もしくは刺激しあっており、最悪の場合、合併案が逆に両党の対立を深めかねないとも限らない。
こうした危険性に対し、合併賛成派は長期的な観点から政党の発展に有益と主張しているが、各立法委員(国会議員)にとっては、合併論の趨勢がただちに年末選挙の路線闘争や選挙区地盤と票の配分に影響を及ぼすことになる。
《台北『中国時報』5月19~22日》
ニュース
中国の恫喝に与野党が反発
民進党と国民党で異なる見解
中国の国務院台湾事務弁公室は、陳水扁総統・呂秀蓮副総統の就任式に合わせ、台湾に対し「一つの中国」の原則を受け入れるよう、軍事力を背景に恫喝を繰り返してきた。
これに対し陳唐山・外交部長は五月十七日、「『一つの中国』は争点の一つにすぎず、原則あるいは政策にはなり得ない」と明言し、「台湾は平和を愛する国家であり、国際社会が台湾の国家主権を尊重するよう希望する」と語った。同時に「中国の声明になんら新鮮味はない。かれらは『一つの中国』論を何度も喧伝してきており、国際情勢が変化しているなかに、まったく調整しようとも変更しようともしない」と非難した。さらに陳部長は「中国は『台湾人民に期待を寄せる』などと言っているが、総統選挙で多数の台湾国民が陳水扁総統を支持し、民進党は前回より百五十万票も得票を伸ばした」と反論した。また李登輝前総統は、中国の強硬姿勢に対し「吠える犬は人を咬めない。人を咬む犬は吠えない」と語り、国民に緊張する必要がないことを訴えた。
連戦・国民党主席は同日、「一つの中国」の原則を受け入れるかどうかについては言明を避けたが、「『一つの中国』とはすなわち中華民国である」と述べた。さらに「国民党と親民党の両岸政策は明確であり、それは平和と相互尊重を原則とし、両岸の相互利益を追求し、双方勝利の局面を創造することだ。同時に台湾海峡の現状を維持し、台湾優先の原則下に台湾発展の契機をつかみ、相互協力の下に経済発展を推進することだ。この考えは陳水扁氏にも中国にも参考になるものだ」と国民党の原則論を述べた。
《台北『自由時報』5月18日》
地球観測衛星の打上げ成功
宇宙開発プロジェクト前進
行政院科学委員会は一九九一年に「宇宙技術発展長期計画」を策定し、十五年間長期プロジェクトを発表した。それに基づき一九九九年に電離層観測衛星である「中華衛星一号」を米国のロケットで打ち上げた。次いで本年五月二十一日、地球観測衛星である「中華衛星二号」(略称・華衛二号)の打ち上げに成功した。華衛二号は米カリフォルニア州バンダーバーグ空軍基地からトーラスXL型ロケットによって米西部時間二十日午前十時四十七分(台湾時間二十一日午前一時四十七分)に打ち上げられ、約十五分でロケットと分離し、発射後一時間十四分後にスウェーデンのキウラナ基地が衛星からの通信を受信し、太陽電池が順調に作動していることを確認した。華衛二号は今後、地上約八百九十一キロの上空を周回し、台湾上空を一日二回通過し、新竹のセンターに画像を送り続ける。華衛二号の地表解像度は二メートルである。
《台北『中国時報』5月22日》
日台安保経済研究会が発足
民主党衆参両院議員約30名
日本の野党第一党である民主党の衆参両院議員約三十名が参加する「日本・台湾安保経済研究会」が五月十八日、参議院議員会館において発足する。同研究会は「民主主義は日本と台湾の最大にして最重要な共同の価値観」であり、「日台は経済、文化、安全保障など各方面にわたって唇歯輔車の関係にある」ことを基礎に、日台両国の国会議員の交流を拡大、強化し、東アジアの平和と安定を追求することを目的としている。同研究会の発足によって、日台の国会議員交流が今後さらに拡大することが期待される。また同研究会は、前述の目的を達成するため、台湾の国際参加を支援する予定である。会長には中津川博・衆院議員が就任し、幹事長には長島昭久・衆院議員、事務局長には大江康弘・参院議員が就任する。
研究会の発足に先立ち、台湾紙のインタビューを受けた長島氏は「日本人は台湾が中国の軍事的脅威を受けているという立場を十分に理解しなければならない。われわれには国会議員として、さらにこの問題を直視する義務がある」と語った。また長島氏は、新規発足の日台安保経済研究は、日本と中華民国とのパイプではなく「日本と台湾のパイプ」であることを強調した。
中津川氏は「台湾の早期の国際社会復帰を全面的に支持することは、日本にとって有益であるばかりでなく、アジアの安定にとっても非常に重要である」と語った。
《台北『自由時報』5月17日》
次期駐日代表に許世楷氏が内定
日米との安保連携強化し台湾を護る
●新内閣の下に定期異動
第二期陳水扁総統の就任とともに游錫堃改造内閣が発足し、駐外代表の人事異動も進められた。その一環として陳唐山・外交部長は五月十八日、羅福全・駐日代表の後任に、建国党主席、台湾独立建国連盟(以下、台独連盟)中央委員等を歴任し、津田塾大学名誉教授でもある許世楷氏に決定したと発表した。
四年前、政府に羅福全氏を推薦したのは、台独連盟主席の黄昭堂氏である。黄昭堂主席は今回の人事異動について「海外駐在要員の異動は政府の任期のルールに沿って行われている」と語った。四年前、政府から相談を受けた黄昭堂主席は、台独連盟の主要幹部の一人で、日米での生活経験が豊富な羅福全氏を推薦し、それ以来四年間、羅代表は日台交流の拡大とレベルアップに大きな貢献をした。したがって今回の人事異動では、羅福全氏に匹敵する人物が就任してこそ政府が求める新陳代謝の意義があり、有益と言えるのだが、許世楷氏も日米との関係は深く、適材適所の人選と言える。
●許世楷氏の背景
許世楷氏は一九三四年、彰化市に生まれ、五七年に台湾大学政治学科を卒業したあと日本に留学し、早稲田大学で修士号、東京大学で法学博士号を修得し、その後、津田塾大学の教授に就任するなど、在日経験は三十三年に及ぶ。この間に台湾独立運動に加わり、国民党政権時代のブラックリストに名を載せられた。当時、日本で王育徳氏(故人)の「台湾青年社」を中心に台湾独立運動を展開していた黄昭堂氏、金美齢氏らとは同志であり、一九八九年には鄭南榕氏が主宰する月刊『自由時代』が許世楷氏の「台湾共和国憲法草案」を掲載し、それが発端となって同誌が発禁処分となり、鄭氏が「反乱罪」の容疑で起訴され、警察官包囲の中で抗議の焼身自殺をするというショッキングな事件があった。なお、その年十二月の立法委員選挙で鄭氏夫人の葉菊蘭氏が「台湾独立」を掲げて立候補し当選している。
また、許世楷氏の家系は彰化の名家で、祖父の許嘉種氏は台湾文化協会(日本統治時代の台湾人文化団体で、台湾人主体運動を展開)の主要メンバーの一人であった。許世楷氏夫人の盧千恵氏の祖父・盧甘氏もかつて台中の名士で、台湾文化協会の指導者であった林献堂氏の右腕的存在であった。なお盧千恵氏の妹は、台独理論の第一人者である陳隆志氏の夫人である。
ブラックリストが消滅し帰国してから台湾文化学院院長、台湾建国党主席に就任した。四年前に政権が交代したあと、呂秀蓮副総統の要請に応じて「総統府人権諮問小組」の召集人(委員長)および呂副総統の主宰する「台湾心会」台中分会会長に就任した。
●日米との安保を強化
許世楷氏は五月十八日、駐日代表就任について同十三日に陳唐山・外交部長から電話で打診があり、陳部長に許氏を推薦したのは総統府資政の彭明敏氏と辜寛敏氏であることを明らかにした。
許氏は今後の課題として「日本で培った人脈を学界、文化界から政界に拡大し、両国外交のレベルアップを進めたい」と語った。さらに「最重要なのは台湾の安全である。日米安保条約のなかに『周辺有事』のガイドラインがあり、台湾防衛には米国だけでなく日本にも責任があることを明確に規定している。一九九六年の台湾海峡危機のとき、米国は台湾防衛のため日本の軍事基地を活用する必要があった。こうしたことから、日本側に台湾防衛の重要性について理解を深めてもらうよう努力したい」と表明した。
さらに許氏は同二十四日、テレビ局のインタビューを受け、「就任後の最大任務は台湾新憲法について日本の支持を勝ち取ることであり、学術文化面から台日関係に入って行きたい」と語った。
《台北『中国時報』5月19・25日》
総統府資政・国策顧問名簿
総統府は陳水扁総統・呂秀蓮副総統就任式前日の五月十九日、二期目の総統府資政ならびに国策顧問の名簿を以下のとおり発表した。
〈有給職資政・十三名〉
彭明敏、鍾肇政、邱連輝、孫運璿、陳継盛、黄昆輝、倪摶九、郭衣洞、孫治平、孔徳成、許水徳、呉澧培、康寧祥
〈無給職資政・十四名〉
李元簇、辜振甫、許文龍、張建邦、陳田錨、林栄三、辜寛敏、唐 飛、陳楷模、辜濂松、高玉樹、林信義、湯曜明、陳河東
〈有給職国策顧問・二十八名〉
李 喬、黄天麟、黄天福、黄昭堂、黄文雄、黄 華、黄 麻、黄越綏、李江海、陳必照、侯和雄、曾茂興、尤哈尼・伊斯卡卡夫特、 陳錫淇、胡鎮球、李永熾、陳哲男、余政憲、劉初枝、劉三錡、黄輝珍、陳郁秀、林徳福、阮 銘、張貴木、葉石濤、楊青矗、金恒煒
〈無給職国策顧問・五十八名〉
蕭新煌、施振栄、高志明、何春木、黄崑虎、張文英、呉栄義、陳義炎、曹興誠、方仁恵、李阿青、呉運東、林誠一、蘇洪月嬌、陳財、李秋遠、楊基銓、李成家、金美齢、荘柏林、詹啓賢、邱茂男、杜文正、高俊明、呉樹民、柴松林、白省三、李元貞、林明徳、陳博志、戴勝通、楊思勤、許松根、陳哲芳、黄茂雄、陳希煌、陳添枝、蔡長海、蕭鴻川、許勝雄、王玉発、馬水龍、朱敬一、蔡清彦、蔡英文、王 郡、魏哲和、涂醒哲、林昭庚、樊仁裕、張富雄、林文珍、陳永興、廖敏雄、紀 政、朱 銘、王秀紅、王茂雄
【総統府 5月19日】
新幹線車輌の第一陣が高雄港に到着
九月から試運転開始、開通までに三十編成を輸入
五月十八日に日本の神戸港を出発した台湾高速鉄道、いわゆる台湾版新幹線で使用される日本製の新幹線車輌を載せたコンテナ船が同二十五日、高雄港に到着した。
車輌は、日本の新幹線「のぞみ」をベースに製造された「七〇〇T型」。一編成十二両で、全長が三百四メートル、重量は五百三トンになる。白の車体にオレンジと黒のラインが入ったオリジナルデザインで、冷房の噴出口を日本サイズより大きく設計するなど、酷暑の気候に配慮した台湾仕様となっている。今回到着したのは一編成のみで、コンテナ船から大型クレーンを使って陸揚げされた。日本にとっては新幹線技術の初の輸出となる。
陸揚げの式典には殷琪・高速鉄道(以下、高鉄)会長をはじめ、游錫堃・行政院長、林陵三・交通部長、それに日本企業連合・台湾新幹線会社の佐藤一夫会長らが出席した。殷琪会長は「台湾で実物を目にすることができて本当に嬉しい。九九年三月に着工して以来、数々の困難と試練に遭遇したが、これまでやってこれたのは、ひとえに政府と、建設に協力してくれた皆さん方のおかげだ。来年十月の開通に向け、九月から一年間かけて車輌の試運転を行う。資金の調達も問題ない」と自信を見せた。游院長は「新幹線は台湾の新時代を開く重要な建設だ。予定通り建設できるか一部疑問の声もあったが、今日の車輌の搬入で、そうした懸念も晴れると思う。開通まであと一年と五カ月間、台湾西部ゾーンを日帰り圏に発展させるべく全力で建設にあたってほしい」と期待を述べた。また日本側の佐藤会長は「新幹線建設は膨大な費用が必要だが、駅の新設と周辺地域の開発など、地方と経済に全面的な影響を及ぼす。日本の観光客の多くは台北に偏っているが、新幹線開通後、台北―高雄がわずか一時間半で結ばれれば、高雄にも大勢の観光客が訪れるに違いない」と述べた。
高雄港に陸揚げされた新幹線車輌は、お披露目のため、翌二十六日に高雄市内をパレードしたあと、高雄県燕巣のメンテナンス工場に運ばれる予定となっている。ここで車両を連結させ、九月から高雄―台南間で試運転を行う計画だ。開通までに合わせて三十組(三百六十車両)を輸入し、新幹線の十一の駅がすべて開通する二〇一〇年には四十六組、さらに二〇一八年には五十一組に増やすことにしている。
料金は、途中下車駅の数や所要時間などにより数種類設定し、台北―高雄ノンストップの場合、飛行機と在来線の中間の約千二百元(約三千六百円)程度が見込まれている。
《台北『中国時報』5月26日ほか》
陳水扁総統プロフィール ㊤
生い立ちから現在までの歩みと政治実績を振り返る
陳水扁は一九五〇年の旧暦九月に台南県官田郷の小作農家に生まれた。生まれた時、すぐに戸籍機関に出生届を出さなかったため、身分証明書上の生年月日は一九五一年二月十八日となっている。
家は貧しかったが、陳水扁は向上心を失わず、しばしば借金をして学校に通った。隆田小学校から曾文中学、台南第一高校へと進み、どの学校も首席で卒業した。一九六九年に第一志望だった国立台湾大学商学部の工商管理学科に合格したが、この学科が自分の興味に合わないことに気づいた。その頃、立法委員の定員増に伴う第一回補欠選挙が行われており、民主化運動の先輩である黄信介氏の講演を聞いて深く感動し、法律を学ぶ決意をした。
翌年、大学入試を受け直した陳水扁は、トップの成績で国立台湾大学法学部に合格した。そして大学三年の時に弁護士試験を受けて最高の成績で合格、当時全国最年少の弁護士となり、卒業前から法律事務所で働き始めた。その後、海洋国家である台湾がその発展の過程でしばしば対外貿易を通して世界と接触しており、当時の台湾経済も輸出を中心としていることを知った陳水扁は、海商法専門の弁護士となることを決めた。
一九七五年、陳水扁は呉淑珍と結婚、専業の弁護士となり、娘一人と息子一人が生まれた。一九七九年、高雄市で「美麗島事件」が発生した。当局は民主運動家を強力に弾圧し、反乱罪の嫌疑で軍事法廷の審判にかけたため、世界中から強い関心が寄せられた。陳水扁は社会正義の理念に基づき、呉淑珍夫人の支持のもと、被告の一人であった黄信介氏の弁護に当たることとなった。陳水扁は「台湾人民の良心の法廷」において、自由と人権と民主主義のために弁護したのである。以来、陳水扁は政治の世界に入って民主化運動とともに歩み、台湾人民のために奮闘することとなる。民主化への道を切り開いてきた先輩たちの後を引き継いで、社会正義と自由と民主主義のために努力を惜しまなかった。
一九八一年、陳水扁は初めて公職選挙に立候補し、「民主、均衡、進歩」のスローガンを打ち出して台北市の第四期市議会議員に最高得票で当選した。陳水扁は、法律家としての良識と悪を憎む姿勢を堅持し、政府を辛辣に批判し、不正を暴くことで知られるようになった。
一九八四年に「蓬莱島雑誌事件」が起き、同雑誌社の社長だった陳水扁は名誉毀損で訴えられた。一九八五年、同事件の第一審判決が出たあと、陳水扁は市議会議員を辞任し、故郷の台南県で県知事選挙に出馬したが、高得票ながら敗れた。同年十一月十八日、陳水扁が支持者に感謝して挨拶回りをしていた時、呉淑珍夫人が、路地から突然飛び出してきた大型車にはねられて重傷を負い、以来下半身が麻痺してしまった。この痛ましい出来事によって、弱者を助け、不正に挑戦し、社会正義を守ろうとする陳水扁の決意は一層固いものになった。
一九八六年、陳水扁は懲役八カ月の判決を受け、六月十日、同じ事件の被告である黄天福氏と李逸洋氏とともに土城刑務所に収容された。これは陳家にとって最も辛く苦しい時期だったが、夫妻は強い絆で結ばれており、互いに支えあい、強い気持ちで困難に立ち向かうことができた。
一九八六年末、呉淑珍夫人は立法委員に当選した。陳水扁は一九八七年に出獄したあと、正式に民進党に入党、弁護士として働きながら夫人の補佐役を務めた。
一九八九年十二月、陳水扁は「正義、真剣、専門」のスローガンを掲げて立法委員の定員増加に伴う補欠選挙に当選し、民進党立法院議員団の初めての幹事長となった。一九九二年十二月に立法委員に再選され、任期中「政策討論をもって政治抗争に代える」ことを主張し、野党の姿勢と思考を変えた。陳水扁は率先して立法委員国会事務所を開設し、専業の議員として議会質疑を行うことを提唱した。また野党委員として初めて国防委員会の召集人となり、軍隊の国家化、情報機関の法制化、軍政軍令の一元化、軍事物資調達の公開などを目標に定めて推進した。また、軍人の権利と義務の保障にも力を尽くし、多くの専門団体や立法院記者団から、最も優れた立法委員として賞賛された。
民進党は一九八八年に「台湾の主権独立」と「住民自決同意論」について政策声明を発表した。この声明は、陳水扁による党内の協調と提案によって、台湾独立の前提として「もし国民党と共産党が一方的に和平交渉を行うならば、もし国民党が台湾人民の利益を裏切るならば、もし中国共産党が台湾を統合するならば、もし国民党が真の民主憲政を実施しないならば」という「四つのもし」を加えたものとなった。これによって、民進党の台湾主権独立に関する論述は、より大きな弁証の空間を得た。
一九九一年、民進党は建国を政党の目標として明確に掲げるために、党綱領の修正を進めていた。陳水扁はその手続規定に「主権在民の原理に基づき、台湾全住民による公民投票に付して選択決定すべきである」という前提を加える提案した。こうして民進党の「台湾独立綱領」は「公民投票綱領」へと修正された。これらは、台湾海峡両岸関係に対する陳水扁の理性的で実務的な態度と民主主義理念の堅持を示している。
陳水扁は常に「自己の役割を果たし、為すべきことを為す」をモットーとしてきた。一九九三年八月、陳水扁は翌年末に行われる初の民選台北市長選挙に立候補するために「陳水扁市政センター」を設置し、講演会やセミナーを開いて市政を理解し、計画を立て始めた。党内選挙に勝って指名を受けた後、陳水扁は「希望の都市、幸福な市民」をスローガンとし、四大エスニックグループが手を取り合う「台北―新故郷」をビジョンとして、市民が直接参加する「市民主義」を強調して戦った。これが市民の評価と支持を得て、直轄市である台北市の初の民選市長に当選した。
市長となった陳水扁は、党派やエスニックに関わらず、能力のある人材を登用した。最初の施政報告では「市政の企業家経営」という意識改革を掲げた。「清廉、効率、市民への奉仕」を三大施政方針とし、「一に原則、二に強化、三に改革」をもって市民主義の原則を堅持して、社会福祉と文化やレジャーを強化し、交通、教育、都市開発の三大改革を優先的に進め、市政の改造を全面的に加速させた。
台北市長としての四年間、重要な公共建設のコントロール、交通状況の改善と台北新交通システム(MRT)建設の加速化、衛生下水道システムの普及率上昇、台北市芸術フェスティバルと台北ランタン・フェスティバルの開催、ゲームセンターと風俗営業の一掃などを行い、市民から高い評価を得た。一九九八年の「亜洲周刊(アジアウィーク)」誌によるアジアで最も住みやすい都市のランキングでは、それまで十位以下だった台北市は一挙に第五位にランクされた。また陳水扁は、米国のタイム誌が選んだ二十一世紀の世界のリーダー百人の中にも、亜洲周刊が選んだアジアの将来のリーダー五十人の中にも名を連ねた。
陳水扁は「台北は世界へと歩み出し、世界は台北に入ってくる」という理念を堅持し、都市外交によってわが国の国際参加に協力した。市長在任中に、台北市は十四の都市と姉妹都市関係を結び、一都市とパートナー都市関係を結んだ。一九九八年には台北で第一回世界首都フォーラム(WCF)を開催、世界の五十八カ国、六十七の都市から首長や代表が参加し、台北市と台湾の国際的な知名度を大いに高めた。
一九九八年十二月、台北市長選挙で再選を果たせなかった陳水扁は、「進歩的なチームに対する無情は、偉大なる都市の象徴である」と語って支持者の気持ちに応え、自らを励ました。市長を退任した後、一九九九年から台湾各地を視察して人びとの声に耳を傾け、多くの人に教えを請い、国家の将来を考えた。さらに日本、韓国、モンゴルを訪問して、各国の研究機関や政党の指導者と、アジア太平洋地域の集団安全保障に関して意見を交わした。米国を訪問した際には、シンクタンクや政策決定者と会談し、台湾の安全保障は世界の安定に不可欠であることを強調した。
その後、中華民国第十代総統選挙に出馬した陳水扁は、国家安全保障を主軸とする「新中間路線」を打ち出して、包容と超越、向上という新たな政治思考を提唱し、確固たる明確な理念の必要性と寛容で現実的な手段を強調した。一九九九年七月、陳水扁は正式に民進党の総統候補に指名され、「新たな政治が百年の基礎になる」と題する演説で、全国民がともに黒金体制(金権政治)を終結させ、政権交代を実現するよう訴えた。それと同時に「若い台湾、活力ある政府」によって台湾の強い生命力と国家発展のエネルギーを結集するよう呼びかけた。
台湾海峡情勢の安定のために、陳水扁は「善意の和解、積極的協力、恒久平和」の原則を掲げ、両岸関係の正常化を積極的に推進するとともに、台湾の主権と尊厳と安全を守るという前提の下で、中国大陸に対して絶えず善意を示し、いかなる対話と協力の可能性も求めてきた。
二〇〇〇年三月十八日、陳水扁と呂秀蓮は国民全体の付託を受けて中華民国第十代総統および副総統に当選し、五月二十日に就任した。これは、中華民国における初めての政権交代と平和的な政権移譲であり、さらには世界の華人社会における重要な民主的成就でもあった。
総統に就任した陳水扁は、安定、安全、平和な環境こそ国政推進における最も重要な任務であると考え、その就任演説において「五つのノー」を発表し、最大の誠意と善意をもって両岸関係に和解と協力と平和をもたらすことを希望した。また「確固たる立場と現実的な前進」の原則を堅持して、両岸の文化、経済貿易、政治の良好な相互関係を推進し続けた。さらに、台湾海峡両岸は発展と建設のカギを握る重要な時期にあり、双方は一日も早く膠着状況を打破して接触と対話を再開すべきだとの考えから、二〇〇四年二月に「一つの原則、四大テーマ」を主張し、両岸が早急に「平和的で安定した対話の枠組み」を確立して「一つの平和」の原則をもって「一つの中国」の原則に代えるよう呼びかけた。これによって、双方が「対話メカニズムの確立」「対等互恵の往来」「政治関係の構築」「軍事衝突の防止」という四大テーマについて話し合い、互いを尊重する互利互恵のコンセンサスを得て、永久に平和で長期にわたって安定した台湾海峡の新たな局面をともに打ち立てることを主張したのである。
「台湾は立ち上がり、世界に向けて歩み出る」という目標を実現するために、陳水扁は就任後、「民主外交・友誼の旅」「合作共栄・睦誼の旅」「合作互助・思いやりの旅」「携手同慶・欣栄の旅」と銘打って友好国十五カ国を訪問した。これはわが国の外交関係をより確かなものとするだけでなく、台湾を国際舞台に上らせ、台湾の人道的関心を世界の人びとに示すものとなった。また陳水扁は「多元的外交」という新たな考えをもって、わが国の海外駐在機関に、非政府組織(NGO)への参加の機会を切り開くよう求めた。二〇〇二年一月一日、台湾は十二年にわたる努力の末、外交上の困難を打破して、ついに世界貿易機関(WTO)への加盟を果たし、その第百四十四番目の加盟国となった。これは、わが国の外交および経済貿易における重要な一里塚である。
二〇〇一年八月、国内経済の振興、台湾発展の位置付け、国際競争、両岸関係、WTO加盟への対応などの議題について、党派を超えた「経済発展諮問委員会議」を開き、与野党や各国から代表を招いて話し合った。その結果「台湾を深く耕し、グローバルに布陣する」という新世紀の国家経済発展ビジョンが確立し、それまでの「急がず忍耐強く」政策に代えて「積極開放、有効管理」政策を採用することで両岸政策の安定した基礎を確立した。
(以下次号)
台湾観光年
澎湖花火祭り開催中
海上から吹き付ける季節風も去り、旅行のベストシーズンを迎えた澎湖島は、四月以降一日に千人を越す観光客が訪れる人気ぶりだ。マリンスポーツもこれから本番となる澎湖島で五月八日から六月十五日まで「二〇〇四年澎湖国際海上花火祭り」が開催中だ。
今年で三年目となる澎湖の花火祭りは、海上に打ち上げられるのが特徴で、夏の夜空に咲く大輪の花が海面上に艶やかな姿を映し出し、幻想的な光景を作りだす。今年は日本や香港からの参加も予定されており、期間中一日おきに観音亭の海岸で、午後八時と九時の二回、花火が打ち上げられる。このほか、夜にミニコンサートなどのイベントも開催されている。
台湾の各航空会社では、花火祭りに合わせて、澎湖二泊三日のフリープランや団体旅行の各種ツアーを四千元(約一万二千円)から打ち出しており、日によっては飛行機が満席になるほどの人気だ。
●菊島シーフード祭りも開催中
花火祭りと合わせて同時に始まったのが「菊島シーフード祭り」。澎湖ならではの新鮮な魚介類を使ったシーフード料理を目当てにこの地を訪れる観光客も少なくない。
数ある魚介類のなかでも澎湖島が一大産地と言われているのがイワシだ。毎年四月になると成魚が澎湖一帯に集まり、海草のある砂浜の海中で産卵する。イワシは五月から八月にかけて成長し旬を迎える。澎湖は台湾で唯一、イワシ漁を見学できる観光船が出ており、観光客は明け方四時に起床、五時に出航し、海上のイワシ漁を見学する。
今年シーフード祭りで特にお勧めなのがカキだ。澎湖のカキは台湾本土のそれとは一味もふた味も異なる。本土では多くが川と海の交わる場所で養殖され、工業排水などが混じりやすいが、澎湖は純然たる海中で養殖されるため、香りも味も逸品だ。澎湖のカキの旬は六月から九月にかけてで、この時期最も身が太り、味もよい。
菜園の港湾内には観光客向けに、カキの養殖区とイカの観光区がある。釣竿に餌をくくりつけ池に下ろしカキやイカを釣る趣向だが、釣ることが目的ではなく、あくまで遊びだ。なかでもイカ釣りは墨を吹き付けられないよう工夫が必要で、子どもたちにとって人気となっている。
シーフード祭り期間中、澎湖島の十一のレストランでは、旬の魚介類を使った特別料理を一テーブル(十人分)三千元(約九千円)で用意している。
《台北『民生報』4月28日》
黒マグロフェスティバル開催中
恒例の「屏東黒マグロ文化観光フェスティバル」が今年も五月八日~六月二十七日開催される。
屏東県は黒マグロの産地として知られており、以前は日本への輸出が中心だったが、蘇嘉全氏が屏東県長に就任した四年前から黒マグロと観光を結合させた地元のイベントとして定着している。屏東県の黒マグロの生産高は年間十五億元(約四十五億円)に上っており、屏東県の重要な観光資源となっている。
今年は「東港で食べ、東港魚市場を見て大鵬湾で遊び、懇丁に泊まろう! 」をキャッチフレーズに、黒マグロを中心とした「食」の飛躍を目指す。大鵬湾園区にはマグロテーマ館が設置され、東港魚市場や光復路海産街、小琉球、霧台、懇丁などではショーも開催される。
期間中、東港周辺の商店では黒マグロを使った煎餅などの食品をはじめ、関連グッズも販売される。
《台北『民生報』4月23日》
●台北市でも黒マグロ市が開催
台北市では屏東の新鮮な黒マグロを直送したマグロ市が五月七日から六月末まで開催される。関係者によると、今年の黒マグロは例年より数が少なく価格も高めで、一尾キロ当たり千元(約三千円)以上が相場となっている。
台北市民族東路の台北魚市では、新鮮な黒マグロをその場で下処理し、レストランに持参して調理してもらえるほか、宅配も受付けている。
《台北『聯合報』5月1日》
MRT構内でのガム禁止へ
五月十四日、台北市の新交通システム(MRT)構内でガムを噛むことが禁止された。これは法律によって決定されたもので、違反者には千五百元(約四千五百円)~七千五百元(約二万二千五百円)の罰金が課される。MRTを運営する台北捷運公司は利用者への周知を徹底するため今後三カ月間の指導期間を設け、それ以降について取締りを強化する。
これまでMRT構内では、喫煙や飲食、ごみの放置などとともに、噛んだ後のガムの投げ捨てについては禁止してきたが、ガムを噛む行為そのものは含まれていなかった。
《台北『民生報』5月14日》
宝島あれこれ
台湾一色の晩餐会メニュー
五月二十日の総統、副総統就任式典に出席する各友好国の元首や主要国来賓らを招いて行われる晩餐会のメニューが紹介された。
晩餐会は世界貿易センターの展覧館で行われ、総勢約八百人の来賓が出席し、過去最大規模となる見通しだ。メニューは毎回総統の嗜好を反映したものが準備されているが、李登輝前総統がアワビなどの高級食材を使った料理を好んだのとは対照的に、庶民派の陳水扁総統は台湾の素朴な家庭料理や小皿料理が好みだ。
四年前一期目の晩餐会でも台湾色を強調したメニューとなったが、今回はほとんどの食材を台湾で調達し、各地の特産物をフルに生かした調理で、台湾一色となっている。
メニューを紹介すると、宜蘭のアヒルのみずかき、高雄のカラスミ、東港の桜エビ、台南のガチョウ肉の燻製の前菜にはじまり、台南のサバヒー(ミルクフィッシュ)とイカ団子の入ったスープ、客家の伝統ちまき、東海岸で採れるイセエビの蒸し料理、台湾の羊肉のステーキ、澎湖のカキ料理、タロイモのパイ、先住民の伝統菓子の餅、杏仁タピオカ、揚げパンなどのスイーツと、関廟のパイナップル、林辺の蓮霧、屏東のメロン、台東のスイカのフルーツ盛り合わせ、といった具合である。
「来賓の多くがイスラム教徒のため、豚肉はご法度。牛肉も避け、羊肉と魚介類をメインに据えた。台湾の食材を使い、しかも費用が抑えられたため、その分メニューと調理に工夫が必要となり、大きな挑戦だった」と語るのは、圓山飯店のシェフ劉少文氏。同ホテルの厨房で十数年にわたりチーフを務め、李前総統、前回の陳総統の晩餐会メニューも担当したベテランだ。
今回の晩餐会は総統選挙前日の銃撃事件を受け、安全性がとくに配慮された。このため、国宴の開催経験と経営責任者の宗才怡氏の人脈が買われ、圓山飯店が他の競争相手を退け、調理からサービスまで一手に引き受けることになった。サービスにあたるスタッフは総勢四百人。会場の外でエスコートするスタッフは全員この日のために準備されたオーダーメイドの制服を着用する。
台湾の一流シェフが考案し調理する晩餐会料理。五月二十日以降は一般市民もコースセット二千五百元(約七千五百円)で楽しめる。
《台北『民生報』5月14日》
総統就任記念コインが発売
総統就任記念コインが発売される。金と銀の二種類あり、それぞれ単品でもセットでも購入できる。金は一枚一万六千元(約四万八千円)、銀は同一万二千元(約三万六千円)で、セットの場合一万七千五百元(約五万二千円)。五月十七日から台湾銀行の各支店で予約を受け付ける。
《台北『聯合報』5月17日》
文化ニュース
第十五回台湾金曲賞が発表
エスニック勢の受賞も華やかに
台湾のレコード大賞である第十五回金曲賞が決定し、五月九日、受賞式典が国父記念館で盛大におこなわれた。同賞は行政院新聞局の主催で一九九〇年に始まり、今年十五回目を迎える。
最優秀男性国語(中国語)ボーカル賞には、台湾のシンガーソングライター伍思凱(スカイ・ウー)が「愛的鋼琴手」で、各強豪を抑え王座に輝き、同女性ボーカル賞には王菲(フェイ・ウォン)が選ばれた。第一回金曲賞で新人賞に選ばれたスカイ・ウーはその後七回のノミネートを経て初の受賞となり、「待ちに待った賞」と喜びを露わにした。受賞作のアルバム「愛的鋼琴手」はジャズ、ロックをはじめ、伝統戯曲も取り入れた内容となっている。また、最優秀アルバム賞は、アジアで絶大の人気を持つ台湾人ミュージシャン・周傑倫(ジェイ・チョウ)の「葉恵美」が獲得し、若者に人気のバンド五月天(メイデイ)が最優秀グループ賞を獲得した。
一方、エスニック・ミュージシャン勢も、華々しく受賞の舞台を飾った。最優秀台湾語男性ボーカル賞には台湾のブルースシンガー張羽偉が輝いた。フィルム印刷店を経営するかたわら、店の地下室で音楽創作を続けてきたという張羽偉は、受賞の挨拶で、三十年間支えてくれた妻への思いを語った。これまで三回ノミネートされたが受賞に至らなかった秀蘭瑪雅も、今年ついに念願の台湾語女性ボーカル賞を獲得した。先住民の血をひく秀蘭瑪雅はこれまで六枚のアルバムを発売しており、その柔らかな歌声と独特の魅力には定評がある。
また、最優秀客家語ボーカル賞には謝宇威が選ばれた。桃園県出身の謝氏は、これまで二枚のアルバムを出しているが、昨二〇〇三年にスタートし、客家語歌手の露出度を増やした客家テレビチャンネルの音楽総監督も務めている。最優秀先住民語ボーカル賞に輝いたルカイ族の彭水光は、民族衣装で百歳の父とともに受賞式に出席し、同族古来の民謡を熱唱して会場を感動の渦に巻き込んだ。
受賞式典には日本、韓国、マレーシア、タイなどから人気歌手が出席し、国際色豊かとなった。日本からは台湾でも大人気のアイドル今井翼、韓国からは日本で活躍中のシンガーBoAがゲストとして参加した。
《台北『中国時報』5月9日》
第一回ケーブルテレビ博覧会
各種イベントに入場者五万人
台湾初のケーブルテレビをテーマとした博覧会「二〇〇四有線電視博覧会」が、五月七日~九日、台北県の主催で開催された。
七日の開会式には黄輝珍・行政院新聞局長が挨拶し、「昨今の放送科学技術の進歩は目覚しく、この分野の産業は希望と挑戦に溢れている。今回台北県が率先してこの博覧会を開催したことは、映像時代の一里塚を築くこととなるだろう」と新しいデジタルテレビ時代の到来を祝った。台北県によれば、ケーブルテレビは一九九三年に合法化された後、普及速度は非常に速く、台北県での普及率はすでに八五%に達している。
会場となった台北県庁ビル内では、テレビの「過去、現在、未来」、「生活玩具」「産業生態」や「テレビのツボ」などのテーマ別展示コーナーが設けられ、十四のケーブルテレビ局による番組の視聴や、国内通信業者最大手の中華電信によるMOD(顧客の要求にこたえて必要な放送を配信する)システム展、各種講演会のほか、国立台湾芸術大学の卒業制作展もおこなわれた。
今回の博覧会でひときわ注目を集めたのは、音響効果の高いデジタルテレビ専用の番組配信サービスで、各テレビ局と中華電信では加入者獲得のため、さまざまな催しやDVDプレーヤーなど豪華賞品が当たる抽選会をおこなって競い合った。
このほか、県庁舎内のケーブルテレビ科学技術館には、本物さながらの子供用ニュースキャスターブースと舞台番組セットが造られ、子供たちがキャスターやスターを体験するイベント「小さなアナウンサーと俳優」も開催され、活躍ぶりを収録したDVDをもらえるサービスも人気を呼んだ。博覧会は盛況のうちに閉幕し、三日で延べ五万人の入場者を記録した。
《台北『中国時報』5月10日》
お知らせ
第53回新日台交流の会
日 時 6月12日(土) 午後3時
テーマ 南台湾の今と未来
ゲスト 喜田修氏(前(財)交流協会高雄事務所所長)
会 場 日華資料センター3F会議室(東京都港区三田5-18-12)
※参加費無料(ただし事前に電話でお申込みください)
問合せ 日華資料センター
TEL 03-344-8724
中華民国(台湾)電影会
●6月上映会
日 時6月12日(土)午後6時半~
作 品 「販母案考 」(一九九〇年106分/ ※英語・中国語字幕)
監 督 唐基明
主 演 陸小芬、張国柱
会 場 大阪市立北市民教養ルーム
会 費 五百円(烏龍茶付)
連絡先 亜細亜電影迷倶楽部
TEL 0798-67-2300
http://www2s.biglobe.ne.jp/~asiafilm/
春 夏 秋 冬
「青少年スカラシップ企画に大感謝。次回も応募して、選ばれて参加したい!」
「台湾大好き!」
「台湾にまた来たい」
「台湾の言葉を勉強するつもり!」
フジサンケイビジネスアイ、産経新聞社主催、行政院新聞局共催による「日台文化交流青少年スカラシップ」の入選者13名が、春休みに6日間の台湾研修旅行に出かけた。メニューは学校訪問、授業参加、李登輝前総統訪問等々と、盛り沢山だった。その随行レポートを最近見ることができた。入選作品の一部については、本誌2139号(4月15日付)のこのコラムで若干紹介したが、さすが入選者たちで、研修旅行の感想文を読んでいて逆に教えられるものが多くあった。
大学生の神長久美さんは「国家としての形態を持ちながら、多くの国々から国として遇されず、活路を開こうと闘い続けている台湾。日台の友好関係を引き継ぐ事こそが、ここに暮らす隣人達の為に、我々一市民がまず出来る事ではないでしょうか」と、直接台湾の学生たちと語り合った感想を述べる。在日で高校生の李怜佳さんは「台湾は、もう中国と同じ思想や文化にはもどれないだろう。多くの台湾人は、現状を維持したいと思っている。そして誰もが台湾の明るい未来を思い描いている」と感じ取ったようだ。さらに「私にはまだ分からない部分がある。台湾本土に住んでいる人達にとって、私はうらやましい存在だという。どうしてだろう」と疑問を投げかける。そして「私は誰? ……日本に帰ったら、いっぱい考えたい。……自分が日本で生きていることが、どういうことかを知りたい」と言う。人生のドラマに、大きな成長をしたのではないか。
中学生の工藤晋太郎君は「文化交流は決して大げさなことではなく、目に見えないまごころの積み重ねが真の友好を築くということを身を以って知りました」と言う。
これこそ大きな発見ではなかろうか。さらに「李登輝前総統にお逢いすることが叶い、改めて日本人として誇りを取り戻す使命のバトンを受けた重さを実感しました」とも言う。李前総統は日本の青少年たちに「どんな小さなことでもいい。自分が存在する社会、そして国に貢献することを考えてほしい。後世に小さな『何か』でいいから残していくこと、それが人として生きて死ぬこと」と語った。青少年ならずとも、大人にとってもハッとするような言葉である。次回のスカラシップの募集は、7月から始まる。
(K)