中華民国の南シナ海政策について
壱、はじめに
南沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、東沙諸島(総称「南海諸島」)は我が国の先人が発見、命名、使用し、政府により版図に組み入れられ、管轄権を行使している、歴史、地理、国際法のいずれから見ても、南海諸島およびその周辺水域は中華民国固有の領土および海域であり、中華民国は国際法上の権利を有していることに疑いの余地はない。いかなる国がいかなる理由または方式で主張または占拠することも不法であり、中華民国政府はこれを一切認めない。
南シナ海地域で引き起こされている国際係争に対して、中華民国は『国連憲章』と国際法に基づき、「主権は我が方、争議の棚上げ、平和互恵、共同開発」の基本的原則を堅持し、関係国と協議し、話し合いと協力のメカニズムに参加することにより、平和的な方法で争議を処理し、共に地域の平和を維持することを一貫して主張している。同時に、関係各国と話し合い、争議を棚上げし、南シナ海の資源を共同開発することを望んでいる。
弐、基本的論拠
一、歴史
南シナ海地域は古来より我が国の先人が活動していた領域であり、古文書および地方誌には度々南シナ海の海域、島礁の地理的位置、地質、資源、国民による活用状況が記載されている。南海諸島は我が国の先人が発見、命名し、長期的に使用し、領土の版図に組み入れられた。大部分の島礁が長期にわたり「無人居住」(uninhabited)ではあったが、「無主地」(terra nullius)ではなかった。
(一)南海諸島は我が国の先人が最初に発見
後漢の史家である班固(西暦32年~92年)が1世紀に編纂した『漢書』地理誌では、前漢の武帝(紀元前137年~87年)が南シナ海の海島諸国へ使者を派遣したことにより、先人が南シナ海地域の航行の記載を開始したことが記されている。航行の関係で、海洋探検家による南シナ海の島礁、砂洲などの描写もある。これは紀元前1世紀に漢朝とローマ帝国の間の貿易の際に、南シナ海を航行していたことを説明するものである。
後漢(25年~220年)の楊孚『異物誌』によると「漲海崎頭, 水浅而多磁石(南シナ海の海礁は水が浅く磁石が多い)」との記述がある。「漲海」は我が国の南シナ海の古称であり、同海域の波が穏やかではなく、航行の際に船舶が海の波が大きくうねり、海水が膨張しているようであることを意味している。「崎頭」は我が国の海礁、浅瀬の古称である。
後漢末期の三国時代(220年~280年)に呉国の武陵太守である謝承が編纂した『後漢書』(6年~189年)にも、「又曰扶南之東。漲海中, 有大火洲, 洲上有樹, 得春雨時, 皮正黒, 得火燃, 樹正白, 紡績以作手巾或作燈注用, 不知盡。(扶南と呼ばれるインドシナ半島南部の東。南シナ海に、大きな火の島がある。島の上には樹木があり、春雨になれば、皮は黒くなり、燃やすことができる、樹木は白く、紡いでハンカチや灯りの芯に使え、無尽蔵にある)」という記載がある。『後漢書』では、前漢時代に先人が、南シナ海の季節風を利用して中国とインドシナ半島を結ぶ航路を往来し、船舶が漲海(南シナ海)を通過していたことが示されている。三国時代(220年~280年)、呉の孫権は朱応、康泰を扶南(インドシナ半島南部)に派遣した。康泰は帰国後に『扶南伝』を著し、このなかで「漲海中倒珊瑚洲, 洲底有磐石, 珊瑚生其上也(南シナ海の海中に横たわるサンゴ礁の下には大きな岩があり、サンゴがその上に生息している)」と、南シナ海の島礁の地質を描写している。北宋の李昉が編纂した『太平御覧』(984年)にもこの部分が収録されている。
(二)南海諸島は我が国の民間および政府が最初に命名
歴史と古文書からは、我が国の漁民および船員が航海の安全と航路の識別の実際的な必要性から、南海諸島の特性または特徴を踏まえて「珊瑚洲」(372年~451年、晋 裴淵『広州記』)、「九乳螺洲」(1044年、北宋 曾公亮『武経総要』)、「長砂石塘」(1178年、南宋 周去非『嶺外代答』)など、それぞれ異なる名称で呼んでいたことがわかる。
航海事業の発達に伴い、先人らの南シナ海および南海諸島に対する認識が深まり、その分布位置および範囲に基づいて、「千里長沙、万里石塘」(1221年、南宋 王象之『輿地紀勝』)、「万里石塘、万里長沙」(1536年、明 黄衷『海語』)、「南澳気」(1730年、陳倫炯『海国見聞録』)などと南海諸島を呼称していた。
清朝時代の1909年(宣統元年)、日本人の西沢吉次が東沙島を占有しようとしたが、当時の清政府が李準・広東水師提督を派遣して「伏波」、「琛航」などの艦船で西沙諸島を巡視し、石に文字を刻み、我が国の主権を示した。李準は巡視から帰還後、両広総督の承認を得て、西沙各島を新たに命名し、西沙諸島の15の島の名称を確認した。
1934年(民国23年)~1935年(民国24年)に、中華民国内政部「水陸地図審査委員会」は「南海各島嶼華英島名」を制定し、「南海各島嶼図」を発表した。これにより南海諸島は4つの諸島に分けられ、北から南へ、東沙、西沙、南沙(現在の中沙)、団沙(現在の南沙)と命名された。1945年(民国34年)、日本が第二次世界大戦で敗戦し、降伏すると、政府は日本から南海諸島を接収し、新たに東沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島と命名した。このように4つの諸島は我が国の版図に復帰し、名称も確立し使用され続け、今に至っている。
(三)南海諸島は我が国の先人が最初に使用
我が国の歴史書あるいは外国の航海記録のいずれも、我が国南方の住民が長年にわたり南シナ海で海運、漁業および島礁に居住して漁獲物の加工を行うなどの行為があった事実を記載している。例えば、晋記には「珊瑚洲, 在県南五百里, 昔人於海中捕魚, 得珊瑚。(サンゴ礁の洲、県の南500里、先人は海で魚をとり、サンゴを得た)」との記述がある。
19世紀から20世紀の初頭にかけて、外国の海洋探検家は華人が早くから南海諸島を開発し、活用していたことをはっきりと記している。例えば、1879年と1884年の英国王立海軍の資料である『The China Sea Directory』第2巻と第3巻、1923年に英国で出版された『China Sea Pilot』第1巻、1925年に米国海軍水路局(Hydrographic Office, Secretary of the Navy)が発行した『Asiatic Pilot』第4巻には、いずれも中国漁民が南沙諸島に居留している状況や漁民が季節風を利用した活動を行っていることが記載されている。また、鄭和群礁(ティザード堆)の島礁上に、長年にわたり海南島の漁民が居住し、ナマコや亀甲を拾い生計を立て、太平島には井戸が掘られていることも詳細に描写されている。『The China Sea Directory』では、「島の井戸の水質は他の地方よりもよい」と記述されている。
1930年~1933年、フランス人が太平島、南威島、南鑰島、中業島、北子礁などに前後して不法上陸したが、その際に一部の島には我が国の漁民が居住し、子どもも住み、住民は漁業やウミガメを捕獲して生計を立て、ニワトリを飼育し、野菜やサツモイモなども栽培していることを発見した。
太平島には今も清朝時代の墓碑が現存し、この史跡からも先人が古くから居住および経済活動に従事していたことがわかる。
(四)南海諸島は我が国が最初に領土版図に組み入れ、公的文献および古地図にも記載あり
宋朝の趙汝适(1170年~1228年)が著した『諸蕃志』(1225年)には、海南の開発の沿革や地理的位置について「南對占城, 西望真臘, 東則千里長沙, 萬里石床, 渺茫無際, 天水一色, 舟舶來往(南はチャンパ[ベトナム南部]、西には真臘[カンボジア]、東は千里長沙・万里石床[南海諸島を指す]で、果てしない水平線に、空と海が一色となり、船が往来している)」との説明があり、明の時代の陳于宸、欧陽燦などによる『瓊州府志』には、南シナ海の発展の沿革とその地理的位置が説明されている。
清朝の乾隆28年(1763年)に政府発行書物である『泉州府志』には呉陞が康熙年代に広東副将を務めていた際(1721年より早く)に、「…調瓊州。自瓊崖, 歴銅鼓, 経七洲洋, 四更沙, 周遭三千里, 躬自巡視, 地方寧謐(海南の瓊州に転属された。海南の瓊崖から、銅鼓、七洲洋[西沙諸島の旧称]を経て、四更沙まで、その周囲は三千里で、自ら巡視したところ平和だった)」と記録され、遅くとも清朝の中葉までには、南海諸島は海防体系に組み入れられ、管理されていたことが示されている。
清朝の乾隆32年(1767年)に出版された政府発行の地図『大清万年一統天下図』には、明確に「万里長沙」や「万里石塘」(南海諸島の旧称)が版図に組み入れられており、この地図は引き続き嘉慶年代の1811年にも復刊され、その原典が我が国立故宮博物院に収蔵されている。
中華民国成立後、政府は1935年(民国24年)4月に出版した『水陸地図審査委員会会刊』第二期に測量して作成した「南海各島嶼図」を掲載した。これは国民政府が初めて公開出版した南海諸島の地図であり、我が国の南シナ海における最南端は北緯4度であり、曾姆灘(1946年に曾母暗沙に改名)を我が国の領域内として表記し、現在の南シナ海11段線の雛形となった。また、我が国の「水陸地図審査委員会」は「南海各島嶼華英島名」を制定し、「南海各島嶼図」を発表した。
1947年(民国36年)12月1日、内政部が「南海諸島位置図」を制作、発表し、これに基づいて西沙、南沙初頭の接収および駐留が行われた。同地図には南海諸島の周囲に11本の線が引かれ、これは南シナ海U字形線とも呼ばれている。南は北緯4度まで含まれ、この地図には東沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島が描かれ、中華民国の領土であることを説明している。内政部も「南海諸島新旧名称対照表」と「南海諸島位置図」を行政院の報告審査に送付した。
(五)南海諸島およびその周辺海域は我が国が最初に管轄権を行使
北宋時代、曾公亮が著した『武経総要』(1557年)には、「辺防巻」において水軍が南海諸島を巡視した事実が記述されている。
清朝時代の厳如煜による『洋防輯要』(1838年)および清朝乾隆年代の『泉州府志』(1763年)などの政府文書にも同様の記載があり、清朝より前に我が国は南海諸島周辺の海域で沿岸警備を行い、実際に管轄していたことを説明している。
前述の通り、清朝時代の1909年(宣統元年)に日本人の西沢吉次が東沙島を占有しようとした際、清朝はただちに日本に対して抗議し、返還を交渉した。さらに李準・広東水師提督を派遣して艦船で西沙諸島を巡視し、行動で有効管理していることを示した。我が国政府は続いて東沙島および西沙諸島を海軍軍事区に組み入れ、全国海岸巡防処によって管理するようにし、駐在員を派遣して、定期的に補給品を運送した。フランスは安南(ベトナム)を植民地にしていた時代の1931年と1933年に西沙諸島および南沙の9つの小島を占拠しようとしたが、外交部は駐フランス大使館に訓令し、主権声明を表明するとともに、巡視船を派遣した。
1945年に連合国が日本を破り、第二次世界大戦が終結した。1946年に我が国政府は連合国の協力を得て、日本が占領していた我が国南海諸島の接収と派遣軍の駐留を行い、管轄権を回復した。1956年5月にフィリピン人のトーマス・クロマ(Tomas Cloma)が南沙諸島のいくつかの小島に不法上陸し、対外的に「発見」したことを宣言し、「先占」を主張した。だが、これらの島礁は、古くから我が国が所有しており、無主地ではない。我が国の駐フィリピン大使はただちに声明を発表し、南沙諸島が我が国の領土であることを強調し、フィリピンのカルロス・ポレスティコ・ガルシア(Carlos Polestico Garcia)副大統領兼外相に抗議を申し入れた。フィリピン政府はクロマ氏個人の行動であり、フィリピン政府とは関係ないと表明した。
南沙諸島の主権を守るため、政府は同年6月に軍艦を派遣して南シナ海地域の巡航を実施した。さらに10月に我が海軍の寧遠特別派遣支隊が南沙諸島を巡航し、物資輸送と艦隊遠航の訓練を実施した際、南沙北子礁で不法停泊するフィリピン籍海事学校訓練船を発見した。ただちに乗船臨検を行い、船上の機関銃と弾薬を没収し、トーマス・クロマの弟であるフィレモン・クロマ(Filemon Cloma)船長を太和艦に連行して尋問し、クロマ船長は我が国の南沙群島海域に不法進入したことを認め、再犯しないことを約束した。このことからも我が国が有効管理していた事実を説明できる。
我が国が南シナ海地域で管轄権を行使してきた事実は、少なくとも明、清の時代から一貫性と継続性をもっていた。
二、地理
南海諸島は南シナ海のあまたの島、砂洲、礁、堆、浅瀬などの総称であり、南北に約1,800km、東西に約900km広がっている。島礁の分布状況は、北から南へ東沙諸島、西沙諸島、中沙諸島、南沙諸島の4大諸島があり、即ち政府が1947年(民国36年)に「南海諸島位置図」で発表した中に含まれる島、礁、堆、灘などの総称である。
南シナ海は季節風が発生する地であり、前漢時代以来2千年余り、古文書や政府文書に記載されてきた。政府および民間は季節風の地理的利点を把握しており、南シナ海の季節風を利用して現地の貨物輸送、水産品の往来を行い、さまざまな民生経済および巡視活動を行っていた。また、地縁的に近接していることから、南海諸島および周辺海域は我が国の先人の伝統的活動領域となり、異なる時代の地方誌や古文書に南シナ海の地理、地質、経済生活、航行記録、商業往来、漁業資源などの史実が豊富に記載されている。
以下は、我が国の南海諸島の地理環境の特色である:
(一)南シナ海の範囲
東沙諸島:東沙島(英語名:プラタス島)は、東沙諸島の中で唯一水面から土地が露出しており、面積は1.74平方キロメートルで、北緯20度42分、東経116度43分に位置している。台湾高雄港へは北東約243カイリ、香港へは北西約170カイリの距離にある。東沙諸島は主に東沙島と東沙環礁、南衛灘、北衛灘からなり、環礁水域の面積は約300平方キロメートル。環礁の北面外縁は広く、干潮時には水面に露出する。
西沙諸島(英語名:パラセル諸島):北緯15度47分~17度5分、東経111度12分~112度54分に位置し、永興島から台湾高雄港へは約566カイリで、ベトナム、海南島、中沙群島の間に位置し、古くは「千里長沙」と呼ばれた。永楽群島と宣徳群島の30の島礁と灘、礁からなる。北東の宣徳群島には永興、和五、石島、南島、北島などの島々がある。南西の永楽群島には、珊瑚、甘泉、金銀、琛航、中建などの島々がある。最も大きな島は永興島(英語名:ウッディー島)であり、埋め立て前の面積は2.6平方キロメートルである。
中沙諸島(英語名:マックルズフィールド堆):旧称「南沙」で、西沙諸島の東の南側にある。民主礁から台湾高雄港へは約467カイリで、北緯13度57分~19度12分、東経113度43分~117度48分の間に点在している。民主礁(黄岩島ともいう、英語名:スカボロー礁)が水面に露出するほかは、すべて海水に浸っているサンゴ礁である。中沙諸島の周辺海域では水産物が豊富で、漁船、商船の往来も多く、その地位は重要である。
南沙諸島(英語名:スプラトリー諸島):旧称「団沙諸島」で、我が国の南海諸島の最南端にあり、西の万安灘から、東の海馬灘まで、南の曾母暗沙から、北の礼楽灘まで、すべてサンゴ礁で形成された小島である。南沙諸島は南シナ海の各諸島の中で面積が最も広く、島礁の数も最も多い。我が国内政部は1947年に97の島嶼、砂洲、礁灘などを命名、公布した。北緯3度58分~11度55分、東経109度36分~117度50分の間に点在し、平坦な地勢であり、すべてサンゴ礁の平らな小島である。南沙諸島で最も大きい群礁である鄭和群礁(英語名:ティザート堆)は、7つの島礁から構成されている。中心となる島は太平島(英語名:イトゥ・アバ島)であり、面積は0.51平方キロメートルで、太平島から台湾高雄港へは北東に約864カイリである。
(二)我が国の先人が季節風を利用して南シナ海を経営していた
南シナ海地域は季節風が発生する地であり、南シナ海の地理的特色である。現代の航海技術ができる以前においても、我が国の先人は千年以上も前から、毎年春から秋にかけての南西季節風と北東季節風が発生するのを利用して、季節風に乗って南シナ海地域へ往来することができ、東南アジアでビジネス、探検、移民、遠洋漁業などを行っていた。追い風や潮の流れに乗れば便利に移動できた。
先人は南シナ海で発生した季節風を利用して、季節風の特性を把握して、長きにわたり南シナ海でさまざまな民生経済および政府による巡視活動を行っていた。古くは三国時代の謝承が著した『後漢書』に、前漢時代の先人がすでに南シナ海の季節風を利用して中国からインドシナ半島の航路が開かれ、船舶は「漲海」(南シナ海)を通過していた。後漢が交趾(ベトナム)を統治した際、政府の役人は季節風を利用して南シナ海一帯を巡航していた。
19世紀頃には外国の海洋調査隊も、我が国民が古くから南シナ海諸島の季節風に乗って開発と経営を進めていたことを記している。前述した1923年に英国が出版した『China Sea Pilot』第1巻124ページ、1925年に米国海軍海路測量署が発行した『Asiatic Pilot』第4巻などにいずれも記載があり、鄭和群礁(ティザード堆)の上に、長年にわたり海南島からの漁民が居住し、ナマコと亀甲を収拾して生計を立てていたことが描かれている。海南の帆船は米や生活用品などを運び、12月または1月に海南を出発し、鄭和群礁に来て漁民たちのナマコと亀甲と物々交換した後、第一波の南西季節風に乗って帰っていた。
三、国際法
南海諸島およびその周辺海域は、我が国固有の領土および海域であり、時際法(inter-temporal law)の原則など、我が国には現代の国際法の根拠が十分にある。現代の国際法が発展・成熟する前の東アジアの法秩序が、16・17世紀の欧州の段階的発展時の国際法を根拠としていたとしても、我が国の主張はその基準に同じく合致するものである。その理由は次の通りである。:
(一)南海諸島は我が国固有の領土であり、無主地ではなく、他国は先占を主張できない
南海諸島は古より我々の先人が発見、命名、使用し、政府が管轄しており、決して無主地ではなく、他国は勝手に先占を主張し、自国の領土とすることはできない。
様々な歴史資料において、我が国の先人が発見し、南海諸島を占有、継続的に開発および管理し、その後、歴代の政府も沿岸警備、命名、調査・測量、地図の編纂など行政措置により版図に入れ、継続的かつ一貫して管轄権を行使してきたことが示されており、南海諸島は断じて無主地ではない。
1928年に有名な「パルマス島事件常設仲裁所裁判」(Palmas Island Arbitration Case, 1928)の中で、仲裁裁判官は「1つの法律の事実には、その同時期の法律に基づいて論断しなければならない」との認識を示した。このことから、時際法では法律の権原(entitlement)の成立は、「当時」すなわち同時期(contemporaneous)の法律に基づくべきであり、その後の争議発生には、「現在」の法律で論断するものではないと明示している。この原則は権利が継続して存在することの有無についても、各時期の法律の変遷に照らし合わせて判断を加えるべきであると明示している。我が国の南海諸島に対する管理は、国際法の「先占」の原則に合致するのみならず、1945年の第二次世界大戦終結後、政府が南海諸島に対し、高度かつ有効な管轄を行っていることも、時際法の中の領土主権を継続して保有する有効な管轄要件に合致する。
ましてや18世紀の欧州で発展した現代の国際法は、領土取得の規定については、国家が「無主地」を発見、占有(先占)しさえすれば、領土主権を取得でき、その他の付随条件は必要ないと説明している。清朝乾隆帝時期の1767年に制作した官版の「大清万年一統天下図」を例にしてみると、清政府は当時、現在の西沙諸島および南沙諸島の万里長沙、万里石塘を版図に入れており、これは当時の欧州で発展した国際法の規定に合致している。1767年前後には他のいかなる国も南海諸島に対し、主権を有する主張を提起していない。
また、米国の1856年のグアノ島法(The US Guano Islands Act of 1856)を例にすると、米国民が領域のほか、他国が管轄していない島嶼に対し、平和的に低度の開発を行うにことについて、政府がこの告知を受ければ、米国の付属島嶼に属し、管轄権を有するとみなされる。これは一国の政府が、国民による近隣島嶼の使用実践の告知を受け、把握した後、たとえ正式な領土に編入しなくとも、管轄の範囲とすることができると説明している。ましてや、古文書および政府の文献に基づいているのであるから、南海諸島は古より我々の先人が発見、命名、使用すると共に、政府により沿岸警備および版図に入っていたものである。
(二)フランスおよび日本は、第二次世界大戦前後、南沙、西沙諸島の島礁を暫時不法占拠したが、我が国が南シナ海の国際法における権原に影響を及ぼしてはおらず、戦後の1946年、我が国は速やかに南海諸島を接収し、当時国際社会は、異議を唱えなかった。
第二次大戦前後、我が国は日本の侵略に全力で抵抗し、連合国が世界平和の使命を維持することに尽力していた際、当時のフランス、日本はこの機に乗じ南沙、西沙諸島の一部の島礁を占拠した。これに対して我が国は、外交ルートを通じて厳正なる抗議の意を表明し、これを承認しなかった。さらには、フランス、日本などの国が不法に占拠していた時期は長くなく、その後、南海諸島に対する主権の主張もそれぞれが放棄し、我が国の南海諸島における国際法上の権利にも影響はなかった。
第二次大戦終結後、中華民国政府は連合国の支持の下、1946年に南海諸島に駐留し、南海諸島に対して施政、管理、開発などの行政管轄行為を継続して実施し、国際法上で我が国が南海諸島の領土を有する主張を強化した。さらには、当時、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイなど南シナ海周辺諸国は、異議なし(absence of protest)だったことから、これらの国々は、南海諸島の主権を主張する我が国政府の行為を黙認しており、我が国が南海諸島の主権を有する主張をより一層強化するものとなった。
抗日戦争期間中、日本軍は1938年と1939年に東沙、西沙、南沙の各諸島を占領し、1939年3月30日に、台湾総督府第122号告示で、南沙諸島を台湾総督府高雄州高雄市「新南群島区」の管轄に編入すると発表した。1945年8月15日、日本が敗戦、降伏し、我が国は南海諸島の接収作業を行う人員が、1946年11月に海南島から出発し、太平号、中業号、永興号、中建号など4隻の軍艦に分乗し、西沙および南沙諸島を接収すると共に、西沙諸島の中心島嶼である永興島と南沙諸島の中心島嶼の太平島に、人員の駐留を行った。内政部は主要な各島嶼に国碑を再建し、測量し詳細に製図し、改名および「南海諸島位置図」を発表した。1947年2月4日、我が国は南海諸島の接収作業を終えた。
第二次世界大戦終結当時、南シナ海周辺の仏領安南(後のベトナム)とフィリピンおよび第二次大戦の連合国は、我が国が軍隊を派遣し、南海諸島の主権回復および管轄権などの行使に異議を申し立てなかった。これらの国々による当時の長期の不作為と我が国の管轄の事実への黙認は、当該各国に対し、国際法の「禁反言の法理」が生じており、即ち、異議を唱えることができない拘束力を有するのである。
(三)『日華平和条約』(中日和約)が西沙諸島と南沙諸島の中華民国への帰属を確定
抗日戦争期間中、日本は1939年に我が国の南海諸島を不法に占拠し、西沙および南沙など各諸島を併合し、南沙諸島を新南諸島と改名し、日本が占領する台湾高雄州の管轄に入れるなど、我が国の多くの領土を不法に占領した。日本の不法な占拠行為は、敗戦後、我が国から奪取した領土を当然返還すべきとなった。「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「日本の降伏文書」「サンフランシスコ講和条約」「日華平和条約」など一連の関連する国際文書の内容は、相互に繋がっており、国際法の効力のある国際文書では、以下の通り説明している。:
(1)『カイロ宣言』:1943年12月1日、中華民国、米国、英国が共同発表した『カイロ宣言』(Cairo Declaration)の中で、連合国がカイロ会議を開催した目的は、「日本が盗取した満州、台湾、澎湖諸島など中国における領土は中華民国に返還する。暴力あるいは貪欲により略取した他の一切の地域からも日本を駆逐する」と明記している。
(2)『ポツダム宣言』1945年7月26日、中華民国、米国、英国、ソ連などの連合国が共同で発表した『ポツダム宣言』(Potsdam Proclamation)の第8条で『カイロ宣言』の条件は必ず実施しなければならないと明確に定めている。
(3)『日本の降伏文書』:1945年9月2日、日本の天皇が連合軍総帥に対し、正式に無条件降伏に調印した『日本の降伏文書』(Japanese Instrument of Surrender)の中でも、『ポツダム宣言』を受け入れると明確に発表した。実際の上でも、『日本の降伏文書』は『ポツダム宣言』を受け入れたものであり、『ポツダム宣言』は『カイロ宣言』の条件が必ず実施しなければならないとも規定しており、『日本の降伏文書』はこの3つの文書を1つに結びつけたものであることは明白である。この3つの文書はいずれも米国国務省が1969年に出版した『米国1776~1949条約および国際協定編纂』第3巻、1948年に日本の外務省が出版した『条約集』第26集第1巻に収録されている。『日本の降伏文書』は、1946年『米国法規大全』第59巻および1952年の『国連条約集』第139巻の中にも収録されている。つまり、関連各国および国連はいずれもこの3つの文書については条約的性質があり、3者は日本、米国、我が国に対し、当然法的拘束力を持つと見なしている。
(4)『サンフランシスコ講和条約』と『日華平和条約』(中日和約):第二次世界大戦終結後、中華民国政府は前述の『カイロ宣言』『ポツダム宣言』『日本の降伏文書』などの国際文書を根拠に、1946年に東沙、西沙、南沙の各諸島の主権を回復し、主要な島嶼に石碑建立および軍隊の派遣・駐留のほか、1947年12月に南海諸島の名称および『南海諸島位置図』を新しく定め、当時はいかなる国の抗議もなかった。1952年4月28日に発効した『サンフランシスコ講和条約』第2条第6項において、日本が南沙(新南)諸島および西沙諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄すると定めた。更に、『サンフランシスコ講和条約』発効日(1952年4月28日)と同日調印し、同年8月5日に発効した『日華平和条約』第2条においても、日本はすでに南沙諸島および西沙諸島のすべての権利、権原および請求権を放棄したと定めた。また同時に、『日華平和条約』の『第1号照会』においても、「この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある」と規定した。これを以ってしても、南沙および西沙諸島の主権がわが国に返還されたことは、国際法上においても、何ら疑いの余地はないのである。
(四)国際機関が我が国の南シナ海島礁に対する管轄権を実践・確認
1930年4月29日、香港で開催された極東気象会議において、フィリピンマニラの天文台の代表が、中華民国政府が創設した東沙諸島の気象観測所は南シナ海の最も重要な気象機関であると承認するよう提議すると共に、我が国政府が西沙および中沙の両諸島にも気象観測所を設立し、それにより航行の安全を強化するよう希望した。この提案は同会議の議決を通して、全会一致で決議された。これは英国、日本、フィリピンなど当時出席した各国および同機関が中華民国の南海諸島への管轄権を承認したことを表している。1955年10月27日、マニラで開催された第1回「国際民間航空機関」(ICAO)の太平洋地域飛行区の会議において、出席した加盟国16カ国も、東沙、西沙、南沙の気象報告資料の提出ならびに、南沙諸島での1日4回の上空気象観測の補充要請を決議した。これは同機関が、我が国の南海諸島に対する主権を承認していることを証明している。
(五)外国政府が我が国の南海諸島における主権を承認
1955年9月7日、米国の駐華大使館のドナルド・ウェブスター(Donald E. Webster)一等書記官は、外交部に対し、南シナ海一帯の島嶼の内、どの島が我が国に属するのかと問い合わせてきた。外交部は、南海諸島は我が国の領土に属することを明確に米国側に回答した。翌年8月、同氏は外交部に対し、米国空軍の人員が米国海軍の軍艦に上船し、中沙、南沙諸島にある5島(民主礁、双子礁、景宏島、鴻庥島、南威島)で測量を行う計画があり、我が国に便宜を図るよう要請してきた。1960年12月21日、米軍の顧問団は我が国の国防部に、南沙諸島の景宏島、南威島、双子礁への訪問許可を希望する申請を提出した。これらの行為は、米国が我が国に南沙諸島の主権があると理解していることを証明するものである。
(六)フィリピン人の南シナ海島嶼への不法侵入を退去、我が国の有効な管轄を証明
1956年10月1日、我が国の太和艦と永順艦が南海諸島を巡視中、北子礁の外れでフィリピン船舶に臨時立ち入り検査(臨検)をした。太和艦は当該船舶上でフィレモン・クロマ船長ならびに ベニート・ダンセコ(Benito Danseco)機関長らそのほかの乗組員に対し取調べを行い、同船舶からカービン銃と銃弾を押収すると共に、クロマ船長が我が国の領域内に不法侵入したことを認め、二度と侵犯しないことを約束した書簡に署名した。我が国海軍が臨検の任務を実施したことは、我が国が有効に管轄している実際の行動を証明するものである。
(七)周辺国による侵犯行為に対しては引き続き抗議し、我が国の主権維持の行為は前述の通り実施していく。フランスがインドシナに設立した殖民政府は、1931年および1933年に我が国の西沙諸島および南沙の9つの小島を占拠しようと企てたが、我が国政府はいずれも主権を重ねて表明した。日本が敗戦し、第二次世界大戦が終結したことにより我が国政府は南海諸島の主権を正式に回復すると共に、1947年に「南海諸島位置図」を発表し、確認とした。
第二次大戦後、我が国は1946年に南海諸島を接収したが、ベトナムは1956年8月に許可なく南沙諸島に上陸した。我が国外交部は直ちに駐ベトナム公使を通して、同国に抗議の意を表明した。1963年、海軍が南沙諸島を巡視していた際、ベトナムが勝手に我が国の南沙諸島に上陸し、不法に建てたベトナムの石碑を発見した。我が国は直ちに海軍を同島に派遣し、この石碑を破壊し、我が国の石碑を改めて建設し、外交部もベトナムに対し、抗議の意を表明した。政府によるこのような主権維持行為は継続性があり、中断したことはない。
1970年以降、我が国は引き続き海軍を南沙諸島に派遣し、巡視および主権を護持してきた。フィリピン、ベトナム、マレーシアが南沙諸島の島礁に次々に侵犯して来る行動には、交渉を通して関係国に抗議し、国際社会においても途切れることなく厳正なる立場を表明しており、これまでに中断したことはない。さらに、外交部声明を通して、南沙諸島およびその周辺海域は中華民国固有の領土および領海であり、これは疑う余地はないと重ねて表明してきた。
参、中華民国が南シナ海平和イニシアチブの主張を提起
一、南シナ海平和イニシアチブおよびロードマップ
争議を効果的に解決できるよう、政府は2015年5月26日に「南シナ海平和イニシアチブ」(South China Sea Peace Initiative)を提起し、関係各方面が自制し、南シナ海地域の平和と安定の現状を維持するよう呼びかけた。また同時に、「主権は我が方、争議の棚上げ、平和互恵、共同開発」の基本原則の一貫した主張を堅持し、その他の当事国と南シナ海の資源を共同で開発することを願うと共に、関連する対話と協力のメカニズムに積極的に参加し、平和的方法で争議を処理し、地域の平和維持および地域の発展促進も願った。
馬総統は2016年1月28日、代表団を伴い太平島を訪れ、埠頭、滑走路、灯台、農場、牧場、病院、郵便局、淡水の井戸、観音堂、太陽光発電施設を視察し、さらには、「南シナ海平和イニシアチブ」ロードマップ(Road Map)について談話を発表し、いかにして南シナ海の平和を推進し、太平島を「南シナ海平和イニシアチブ実践の起点の1つとする」かを説明すると共に、太平島を「平和と救難の島」「生態の島」「低炭素の島」にするなど、各種の平和的用途をいかにして推進すべきかについても説明した。
ロードマップについては、太平島を「南シナ海平和イニシアチブ実践の起点の1つとする」ことを目的としていることから、「争議の棚上げ、全体的な計画、分区開発」の実行可能な方法を提起したと強調した。また同時に、短期的には共同で「争議の棚上げ」をして、多国間による対話を行い、中期的段階では、「全体計画」を推進し、長期的段階では、二国間あるいは多国間の協力により、「分区開発」のメカニズムを確立し、平和互恵のウィンウィンの成果達成を期待するといった、「3つの段階的推進」を提起し、ロードマップの具体的内容としたと説明した。
二、南シナ海平和イニシアチブの具体的成果
2年間にわたる話し合いを経て、我が国とフィリピンは2015年11月5日、台北市で「台湾・フィリピン 漁業実務の法執行促進に関する協力協定」に調印し、法執行三原則を確立した。これは、第1に法執行に武器の使用禁止、第2に法執行の1時間前に相手側へ事前通告、第3に、法執行により拿捕された人員と船舶の3日以内の釈放である。同協定により双方の漁業争議は大幅に減少し、政府が推進してきた「南シナ海平和イニシアチブ」のこれまでの中で、最も重要な成果となった。
同協定の意義は次の通りである。(1)台湾とフィリピン双方が『国連憲章』と『国連海洋法条約』を盛り込んだ国際法を基に、排他的経済水域(EEZ)が重なり合う地域の漁業争議について、効果的な解決のメカニズムを確立し、政治的にきわめて意義がある。(2)協定の内容は、『国連海洋法条約』の「臨時措置」の原則および国際的な実践に合致しており、重要な国際法の概念がある。(3)同協定が設立した「技術ワーキング・グループ」(Technical working group)を通して、双方は今後の制度化された話し合いのメカニズムを確立した。
三、太平島を平和、生態、低炭素の島へ構築は、「南シナ海平和イニシアチブ」の精神に合致
我が国はこの70年近く、太平島における様々な運営管理について、太平島を平和と救難の島、生態の島、低炭素の島へと徐々に構築しており、これは我が政府が南の国境地域を発展させ、有効管理し、人道を重視し、生態を保護し、南シナ海の安定と平和を維持する努力を明らかにするものであり、「南シナ海平和イニシアチブ」の精神に合致している。とりわけ:
政府の太平島での警備については、2000年より海軍陸戦隊の管理から行政院海岸巡防署の人員へと引き継がれ、国際社会に対し、太平島の軍事化を止め、平和的に使用する決意と行動を示した。:
太平島の医療救護力は徐々に強化され、現在歯科医を含む3名の医師および3名の看護師が常駐し、ベッド数10床を有する「南沙医院(病院)」を管理している。また、随時テレビ回線により、台湾本島と遠隔医療による問合せもでき、駐在員や付近の海域で作業をしている各国の漁民の医療サービスも提供している。過去20年あまりの間に、我が国およびミャンマー、フィリピン、中国大陸など傷病した20名あまりの漁民を救助、治療し、大きな成果を上げた。
太平島の太陽光発電システムは、太陽熱温水システムおよび節電電気設備が2011年より稼働しており、2014年にはエネルギー蓄電施設と合わせ、太陽光発電量は年間17万kWh(必要としている5分の1近く)に達し、毎年約107トンの二酸化炭素排出量を削減し、太平島を「低炭素の島」へと作り上げた。
四、太平島は人が居住し、経済生活を維持していくのに適した島嶼
現在オランダ・ハーグの「常設仲裁裁判所」(Permanent Court of Arbitration, PCA)で処理中の「フィリピン・中国大陸南シナ海海洋争議の仲裁案」が引き起こした太平島は島嶼(island)あるいは岩礁(rock)であるのかという問題について、馬総統は太平島を視察した際、太平島は「島嶼」であり、「岩礁」ではなく、島には天然で十分な飲料用の淡水があり、自然に形成された肥沃な土壌もあり、様々な農産物を自由に生産し、ニワトリやヤギなども飼育でき、太平島は人が居住し、経済生活を維持するのに適し、「島嶼」を構成する各条件に合致していることを十分に示していると説明した。
前述した通り、1879年および1884年、英国王立海軍資料『The China Sea Directory』の第2巻および第3巻に、太平島は当時我々の先人が開拓し、井戸があり「井戸水はその他の場所より水質が良い」、島には樹林や灌木林が生い茂り、ヤシ、バナナ、パパイヤなどの原生樹林があると記載されている。その後、日本が1935年代に太平島を占拠した時、太平島は多くのパパイヤの木があったことから、当時の日本人はパパイヤ島と称した。これらは、太平島は人が居住し、経済生活を維持できる基本的な要素であることを証明している。また、台湾省水産試験所の一般研究員8名は1980年9月に太平島を訪れ、漁業生物の研究を行い、研究員らはその後同年9月25日に同島に戸籍を移した。同年11月16日には同島で、南沙地区の住民による初めての「国民自治会議」が開かれた。2016年には南沙医院で医療に従事する招聘された民間の看護師3名が太平島に戸籍を移した。
2015年12月12日、陳威仁・内政部長(内政相)は代表団を伴い太平島を訪問し、太平島で整備された埠頭、滑走路および新しく建設された灯台の除幕式を執り行った。また、林永楽・外交部長(外相)も翌年の1月23日、水質、土壌、植生、法律・政治などの研究者らをメンバーとした調査団を伴い、太平島を視察した。一行は台湾本島に戻った後、以下の通り説明した。:(一)太平島は南沙諸島の中で面積最大の自然形成された島嶼であり、同島には豊富な天然資源がある。(二)地質学上から見ると、太平島は土壌の下の堆積層部分が完新世(Holocene)時代のサンゴ礁岩およびさらに下の層の更新世(Pleistocene)時代のサンゴ礁岩には多くの隙間ができていることから、浸透した雨水の絶好の貯水層となっている。そのため、太平島は豊富な地下水を有し、尚且つ飲用できる淡水でもあり、南沙諸島の他の島礁にはない。太平島は豊富で水質の良い地下水の井戸を4つ維持しており淡水含量は平均92.3%に達し、水質が最良の井戸(原生5号井戸)の淡水含量は99.1%の高さに達しており、総溶解固形分はわずか427mg/Lで、この水質は国際的に有名なミネラルウォーター「エビアン」に近い(同社ウェブサイト上で発表している総溶解固形分は330mg/L)。同島にある4つの井戸は一日の総取水量が65トンに達し、飲料用のほか、料理や生活用水にも使用している。(三)同島には、長期間にわたり自然に形成され、植物の栽培に適した肥沃な表土で覆われており、原生した天然の植生が繁茂し、ハスノギリ、モモタマナ、ゴバンノアシなど高さ10~20メートルの熱帯性の喬木が数百本もある。また、ヤシ、パパイヤ、バナナなど天然の果物もとれる。(四)駐在員が同島の各種資源を上手に活用し、カボチャ、サツマイモ、ユウガオ、ニガウリ、ヘチマ、オクラ、キャベツ、空芯菜、サツマイモの葉など十数種の野菜を長期にわたり栽培している。さらには警備犬のほか、ニワトリやヤギなど家禽類や家畜も飼育しており、周辺海域での水産物も豊富であり、生活のニーズを十分に賄っている。(五)したがって、法律的、経済的、地理的いずれの観点から述べても、太平島は『国連海洋法条約』第121条の「人間の居住および独自の経済的生活を維持」するといった島嶼の要件を完全に満たしている。
肆、結び
南沙諸島およびその海域は我が国の先人が発見し、命名、使用したものであり、歴代の政府がこれらを管轄し、古より我が国固有の領土および海域と見なしていたことは、歴史的文献、地方誌および地図の記載などで十分に見てとれる。第二次世界大戦期間中、南海諸島は日本に一度占領されたが、戦後、我が国は南海諸島の主権を速やかに回復し、1947年に内政部が発表した「南シナ海諸島の位置図」がこれを十分に説明している。
1947年12月に施行された中華民国憲法第4条では「中華民国の領土は、その固有の領域による。国民大会の決議を経なければ変更することができない」とあり、南海諸島は我が国固有の領域であり、政府は領土を守る責任がある。南海諸島は中華民国固有の領土のための主張を必ずや堅持するものである。
政府は「主権は我が方にあり、争議の棚上げ、平和・互恵、資源の共同開発」の基本原則を堅持し、「南シナ海平和イニシアチブ」およびそのロードマップを発表したものである。対等な話し合いの基礎の上に、関連する国々と南シナ海地域の平和と安定を共に促し、資源を共に開発および保護し、南シナ海が東シナ海と同様に、「平和と協力の海」となるよう願っている。
【外交部 2016年3月21日】